内的世界旅行

考え過ぎた時にテイクオフ

「夢中」待ち

日記を書いたり、内省したりする中で、自分に関する仮説がぱっと思い浮かんだ。

自分の人生で「夢中」になった経験が少ない、もしくは経験していないせいで、他人の「夢中」を信じてあげられていなかった、というものだ。この仮説は大学生の頃の自分に当てはまる気がしている。

 

大学時代の自分を振り返ると、どこかスレていて、卑屈だった。大学は自分にとって眩しすぎて、辛かった。周りの大学生は競争に慣れていて、がめつくて、強靭で、苦しかった。就活やゼミの面接での綺麗なお話は、誰が話していようと、差別化するためにべっとりと塗り固められた綺麗事だと思っていた。口が達者で、準備に余念が無くて、演技が上手くて、競うことに躊躇いが無い奴が上へのし上がっていくんだなと思っていた。人の「夢中」を信じられなかった。

今思えば、とても極端な思考だった。比較される機会が多過ぎておかしくなっていたんだと思う。

 

当時の自分は就職も進学もしなかったので自分を説明する機会はそこまでなかったけれど、当時面接を受けていたなら、どんなことを話していただろうか。少なくとも当時「夢中」だと認知していたものはなかったと思うし、現在からタイムマシーンに乗りながら過去を振り返ってもないような気がする。

結局人のことを細い目で見ていただけで、自分には「夢中」になれるものなんてなかったのかなあと思う。(なんとか捻り出してゴリ押ししてたかもしれないけど)他人を言い訳にして、自分が夢中になれるものを見つけようとしていなかった。卒論は書いたけど、学問として突き詰めた感覚はないし、結局軸足が定まらず1つの学問を選んで基礎を固めたとも思えなかった。叶えたい夢も、就きたい職業も、見たい世界もない。文句ばかり垂れている努力不足野郎でした。(その当時は認知できていなかったからあまり後悔はない、今なら「もっと上手く時間を使いたかった」と思えるけど)

 

選ばれる段階をひとまず終えた友人たちは、それぞれ働き始めたり、院生として勉学に勤しんでいる。彼ら彼女らを見ていると、あの時語っていたであろう「夢中」は嘘ばかりじゃなかったんだなと思えた。(友人を疑っているわけではない)絶えず進み続けながら確信度を高めていたり、アップデートしたりして、十人十色の夢を抱いているように思える。

 

ようやくここで、最初の仮説に関する自分の考えを書いてみようと思う。プライベートな話になるが、直近1年間で趣味だと思えるものを数個見つけた。それらについて毎日考えてしまうぐらいハマっているが、いつからか「夢中」とはこういう状態を言うのかもなと思えるようになった。人生で初めて自分の「夢中」を認知したような気がする。

おそらく「夢中」状態は自ら能動的に作り出せるものではない。気付いたら「夢中」になっているというのが正しい気がする。大好物の食べ物を探し出すためにいろんな食材や料理を試すことはできるけれど、答えは自分の中にある。むしろ自分の中にしかない。自分の中に電撃が走る瞬間を待つしかない。いろいろ食べてみた上で、僕はハンバーグが大好物だ!と思えたら、その後にひき肉のベストな割合を考えるとか、ソースにこだわってみるとか、向上心が湧き上がってくるはず。その状態こそ「夢中」で、そういう終わりのない営みを趣味と呼ぶのがいいのかなと思う。ここに他者との比較は存在しない、自分しかいない世界で自分がただ楽しいだけなので。(同じ趣味の人と到達度みたいなものを比較してしまうと、楽しめなくなるタイプだと思う)

そのために余計な力を抜いて、自分の感覚を研ぎ澄ませて、一球一球に本気で向き合う。こうした一連のマインドフルな行為の積み重ねが必要になるんだと思う。過去との対話とか、要素の炙り出しとかも必要かもしれない。とにかく受動的に待つしかない。能動的にできるのは受動的に待つための打席を増やすことだけだと思う。

 

大学生の頃の自分は学問や将来像の中に「夢中」を自ら作り出そうとしていたし、「夢中」は自分をわかってもらうためのツールだと思っていた。全て自分の外に求めていた気がする。メタ視点で自分を見過ぎていた。立った打席も少ない。今思えば間違っている。周りの友達で「夢中」を見つけた人たちは、色々な人やものとの出会いの中で自分の中に電撃が走ることを認知して、それを大切に温めてきたんだなーって。だから自分の夢中を赤の他人に堂々と説明することができるんじゃないかって思えたんです。自分にも他人にも寛容になれた気がしました。

 

人生で「夢中」になれるものをたくさん探していきたいと思っているけど、私は学問で「夢中」になることをまだ諦めていない、広く学んでみて、己の雷鳴を待ってみたい、とりあえず今は働こうと思っているけれど年齢も所属も関係なく、学びは続けられるものだから 

 

能動的にいっぱい打席立って、人生を受動的に動かしていくぞ、まじで