カッコつけの決めつけ
自分の行為とか表現に対して「カッコつけるなよ」「なにカマそうとしてんだよ」みたいな類の言葉をぶつけられることが嫌いで、自分宛じゃなくともそういう言葉を見たり聞いたりしたあとは、少しの間、他人と接しない時間を作って殻に閉じこもってしまう
他者にいいところを見せようとした表現や行動なのかもしれないが、他人のフィルターを経由した自分の表現・行動を受け取りたくないかも 俺が何に影響されていようと、俺が誰に認められようとしていようと、お前には関係ないじゃないかと思ってしまう 勝手に名付けるな
でも、まあ自分が誰かにいいところを見せようとしているのも、後から振り返るとあんまり好きになれないってのもあるけど
指摘されると反発する自分がいる一方で「あ、これは『カマす』」という行為なんだなと他人から自分の辞書に上書きされるような気持ちになる 親が買ってくれた国語辞典に落書きされたらまあ嫌だろ
俺の表現ぐらい俺だけでさせてくれや まあでもあれか、結局、「解釈は無数に存在するから自分には操作できないね」と諦められるようになった方が早いか
だから他人の表現も刈らないようにしよう、って話でした
土曜日の夜
ここ数年、友達に思い出されないように、自分に意識が向かないように、必死に身を隠して生きてきたが、どうやらそれは上手くいっているらしく、見事に忘れられていて、とても淋しい
この感情自体は何度も味わってきたけれど、この前友達に「きっとみんな仕事に追われて忙しくて、それどころじゃないのかもね」と言ってもらえて、そう思うことで楽になれる夜もあります ありがとう
誰に助けを求めるのが良いか
働きたいけど自分のことを話して苦しい表情をされるのは嫌だ だったらこのままでいい、よくないけど
Facebookをスクロールしながら「誰かに助けを求めてみようかな」と思う夜がある 不思議とその瞬間は「自分に意識が向いてほしい」と願っている
その度に、全然連絡を取っていなかった人に助けを求めようとする自分の強引さ、わがままさに刃先が向かって終わる 「自分のこと特別な人間だと思ってない?」とか「お前努力してないじゃん」と自分に投げかけられる そして終わる
コロナ禍以降「久々の連絡」というものが苦手になってしまった リアルで人に会うことが減ったし、自分の精神状態が悪化したのもある そもそも継続的な人間関係は苦手だった 一人が一番楽だったから だから突然の「助けてください」は驚かせると思うし、困らせると思う 打ち明けることから始めないといけないし 仕事は選びたいし 結局一人で戦うしかないのかと我に返る
見ず知らずの人に打ち明けることも、これまで関係があった人に打ち明けることも苦しい どの地獄を選ぶか決めるしかないなあ
蟻地獄
なぜ働けないままなのか、自分のことなのに、全然理解できないまま過ごしてきた。前も同じようなことで一本書いたが、また同じようなことで悩んでしまっている。
働きたいという意欲はあるから、より一層不思議だなと感じる。早く経済的に自立したいとは思っているから。働きたいと思って会社のことを調べたり、説明会みたいなものに行ったりはするけど、結局見えないバリアのようなものにぶつかってHPが0になっている。気付いたらやめている。この周期を何度も繰り返している。
友達に現状を伝えた上で助言をもらうと、いつも「まずは1社受けてみることからだね」という結論で終わる。まさしくその通りだなと思う。そこに納得はしつつも、自分も(当然友達も)「なぜ最終的に受けるところまでいかないのか」については答えが出ていないので、根本的な解決には至っていないなあと思いながら、一人で帰路につく。
ある程度のところまでは考えたので、今日は書きながらそれについて整理したい。
自意識がパンプアップしすぎた自意識マッチョの私は、人事や周りの大人に評価されたわけでもないのに、「自分を必要としてくれる会社など存在しない」と思ってしまっている。自分には長所があると思うが、それ以上に短所がデカすぎて、どうせ長所は見てもらえないだろうと思っている。自分の長所を発見し、伸ばしたりアピールしたりして、評価してもらうのが一般的な就活生だと思うが、私は短所をどう語るかにしか意識が向いていない。どんな長所があろうともこの短所を補い切れると思えないし、そもそもそんな大きな長所を持っているわけではない。まして残念なことに、もはや長所を伸ばそうという意識もあまりないように感じる。(意図的に伸ばそうとするものではないのかもしれないが)
この「歪んだ見方」がまずこの問題の第一の原因だと思う。長く殻に籠っていた時間でじっくり形成されたこの歪みを少しずつ直していかなければならぬ。精神衛生が悪いときはこの見方が正常だと思っているけど、安定しているときは、この見方は歪んでいると理解はできる。
もう1つ。少し勇気を出して人事の人や、会社の人と話すことが怖い。シンプルに、嫌な顔をされたり、拒絶されたら傷ついてしまうから。傷ついてきたし。あと、仮に能力不足で落ちたとしても「どうせ俺の既往歴が気になったんでしょ?」と思ってしまう余白がそこに存在するようで、自分に向き合いきれずにいる。この「不安・否定されることへの恐れ」が第二の原因だと思う。これは地域のコミュニティとか、生活圏の繋がりでも一緒で、全てを避けて生きているせいで、日常的な孤独感も生んでいる。バイトもしていないし、逃げることで快適なところにずっと留まってしまっているな
私は孤独と逃避が生む蟻地獄の中にいる。たまーに蟻地獄の外に向かって走り出すときもあるけど、モノの見方が歪んでいて、いろんなことが不安で、怖くて足を止めてしまう。疲れ果て、その場に横たわり過去を回顧して過ごす。そこでは蟻地獄のことは考えず、体力を回復するためにもっと遠い過去の自分の成功やそこに注いできた時間、その過程を思い出す。でもその過去と今がうまくつながっていないように感じ、逆に苦しくなってしまう。幸か不幸か、そのおかげで乗り越えようとする(負の)パワーが大きくなっているように感じ、また走り始めるが、時間の経過とともに蟻地獄自体もサイズが大きくなっているようで、結局登りきれずに穴に落ちてしまう。
うまく説明できている気はしないけど、自分から見た「なぜ最終的に受けるところまでいかないのか」についての答えはこんな感じ。
できるだけ早く、外の世界を見たいのですが
「伝えない」という配慮
孤独で苦しい夜がある。メンタルの状態が良くないときに限って、夜に1人、部屋でぼーっとしていると飲み屋にいる人々や、財力に任せていろんな場所に出かけている人々を想像してしまう。そして酒の場であっても、旅先であっても、その場に居合わせた人たちで意気投合して盛り上がれる人々を恨んだりする。
寂しい夜だから、長らく連絡をとっていなかった友達が連絡をくれないかなとか、急に電話をかけてくれないかなと期待してしまう自分がいる。期待で膨らんだパンパンの風船が、この狭くて暑い部屋いっぱいになったあたりで、眠くなって寝る。(急に連絡をもらったり、電話かけられても困るけど)
そういう自分を、メンタルの状態が良いときに俯瞰して捉えてみる。
前も書いたように期待だけがどんどん大きくなっている。新しい関係が生まれるのは怖い。そしてこれまでの関係も大切にできずにいる。いずれにせよ自分に意識を向けられたくないし、今の状況を説明したくない。理解されないと思うから全てを避けて生きている。でも誰かがこの状況を救ってくれるんじゃないかと思うことだけはやめられずにいる。自分でどうにかできる気がしないから、救世主を待っている。
救世主を待っているから、自分の周りの人間は冷たいなと思ってしまう。(自分からは直接伝えていないけど)自分の現状を伝え聞いている人もそれなりにいるはずなのに、全然連絡をくれないから。自他境界が曖昧で、かつ他人への期待が大きいので、「自分なら連絡するのにな」ともっともっと寂しくなる。 ・・・①
多分そんな感じ。拒絶されたくないので、自ら進んで説明はしないけど、(人づてに伝わっているなら)連絡くれたら嬉しいなと思っている。旧友の皆さま〜〜〜〜〜
少し話は逸れるが、自分について説明することを完全にやめているわけではない。自分の現状について説明し、理解してくれる友達が数人いる。たまに会ったり、くだらないことをLINEをしたり、一緒にゲームをしたりしている。住むところはバラバラだけど、この夏も何人か会えたし、まだ会う予定がある。いつもありがとう。
そのうちの1人の友人(Aとする)とこの間会ったときの話。Aとカフェで話していたときに、共通の友人(Bとする)の話になって、AとBが出かけた話をしてくれた。(ちなみに私はBとそこまで深い仲ではなく、長らく連絡も取っていないので現状についても説明していない。)その際に、私(今文章を書いている私)は元気なのか?という話題になったらしいが、Aは事実は語らず、受け流すように「元気だよ」と伝えてくれたとのこと。
私はBとすごく仲が良いというわけでもなかったし、今後の人生で関わることもなさそうなので、Aのその振る舞いに「伝えないでくれたんだ、ありがたいな」と感じた。個人的には伝えても伝えなくても、どっちでも良かったけど、私のことを考えた上でAが「伝えない」という選択をしてくれたことが嬉しかった。
この経験から『「伝えない」という配慮』が存在することに気がつけた。そして同時に友人(私が現状を打ち明けている友人)に「伝えるかどうかの判断」を委ねてしまっていることにも気がついた。私は「自分の現状を誰に伝えるか」という判断だけしていたが、その判断によって自分の現状を伝えた友人までもが、時に仲介人として、同じような判断を担っていた。申し訳ないなと思った。
でも良いことにも気がつけた。上の①で書いた「期待」に関して、友人たちの配慮によって自分の現状についてそこまで伝わっていないのかもと思えた。自分の現状が伝わっているかどうか定かではないのに、「現状を知っているのに連絡してくれないなんて寂しいなあ」と勝手に思い込んでいた。
私はあたたかい友人たちに支えられて生きている。持っていないものや失った(ように感じる)ものについて考えるのをやめて、孤独な夜は友人たちの愛を思い出して、クーラーの効いた部屋でじんわり温まろうと思う。
「映える」「盛れる」「モテる」
SNSを見ていると「他者に評価される」という意味を持つ言葉がいっぱい観測できますね
見栄
読み手の存在が明確ではないけれど、誰かが読むかもしれないという状況で文章を書くとき「自分が書きたいと思っている内容」を見失うことがある。見栄のせいなのかあまり内的な満足が伴わない文章を書いてしまう。そういうとき自分が書いた文章なのに「この文章書かされているな」と感じる。外面を気にしてそれっぽいことを書いてしまい、後からちょっと違うな〜と後悔することが何度あっただろうか。
上に書いたことは好きな芸人というテーマで考えるとスッキリ考えられそう。「本当の好き」と「他人向けの好き」が存在しているような感覚があって、「好きな芸人とかいるの?」という質問にはうまく答える自信がない。質問者との関係性にもよるが、仮に自分が回答をしていたとしてもその芸人のこと本当は好きじゃないんだろうなと思ってしまったりする。自分が出した答えなのに。誰かに寄せて出した(と思ってしまう)答えは、どんなに時間をかけて出した答えでも、なんだか好きになれない。言わされたような気がしてしまう。真空ジェシカを好きなのか、真空ジェシカを理解できる自分が好きなのか、あまりわからない。このテーマで自分を分析することはとてもムズムズするし、他人から同じように分析されて「センスあると思われたいんでしょ」なんて言われたらそれはもう最悪だ。そういうわけであまり自分の好きなものを前面に出せなかったり、ちょっとだけ好きなものを出してしまったりする。
結局自分の表現は他者が存在しないフィールドでのみ捻り出せるものだと思っているので、解決策が「自分以外には見えないように表現する」に落ち着きがち。日記に書いたり、自分だけのアカウントに溜めたり。(もちろん悪いことを書いているわけではない。)本当は好きなもので誰かと繋がったり、自分の書いたことに反応をもらったりしたいと思っているけど、他人を前にすると、自分がわからなくなるから、内的な満足が伴わなくなるから、やれない。
でも、こうやって誰かが読むかもしれない文章を書いている。本当に読む人がいるのかわからないし、読んでいる人はいないかもしれないけれど、自分以外の人が触れられるようなフィールドで文章を書いているのは自分への試練を与えている気持ちだ。書けるフィールドで少しずつ、自分を表現できたらいいなとは思っている。