内的世界旅行

考え過ぎた時にテイクオフ

見栄

読み手の存在が明確ではないけれど、誰かが読むかもしれないという状況で文章を書くとき「自分が書きたいと思っている内容」を見失うことがある。見栄のせいなのかあまり内的な満足が伴わない文章を書いてしまう。そういうとき自分が書いた文章なのに「この文章書かされているな」と感じる。外面を気にしてそれっぽいことを書いてしまい、後からちょっと違うな〜と後悔することが何度あっただろうか。

上に書いたことは好きな芸人というテーマで考えるとスッキリ考えられそう。「本当の好き」と「他人向けの好き」が存在しているような感覚があって、「好きな芸人とかいるの?」という質問にはうまく答える自信がない。質問者との関係性にもよるが、仮に自分が回答をしていたとしてもその芸人のこと本当は好きじゃないんだろうなと思ってしまったりする。自分が出した答えなのに。誰かに寄せて出した(と思ってしまう)答えは、どんなに時間をかけて出した答えでも、なんだか好きになれない。言わされたような気がしてしまう。真空ジェシカを好きなのか、真空ジェシカを理解できる自分が好きなのか、あまりわからない。このテーマで自分を分析することはとてもムズムズするし、他人から同じように分析されて「センスあると思われたいんでしょ」なんて言われたらそれはもう最悪だ。そういうわけであまり自分の好きなものを前面に出せなかったり、ちょっとだけ好きなものを出してしまったりする。

 

結局自分の表現は他者が存在しないフィールドでのみ捻り出せるものだと思っているので、解決策が「自分以外には見えないように表現する」に落ち着きがち。日記に書いたり、自分だけのアカウントに溜めたり。(もちろん悪いことを書いているわけではない。)本当は好きなもので誰かと繋がったり、自分の書いたことに反応をもらったりしたいと思っているけど、他人を前にすると、自分がわからなくなるから、内的な満足が伴わなくなるから、やれない。

 

でも、こうやって誰かが読むかもしれない文章を書いている。本当に読む人がいるのかわからないし、読んでいる人はいないかもしれないけれど、自分以外の人が触れられるようなフィールドで文章を書いているのは自分への試練を与えている気持ちだ。書けるフィールドで少しずつ、自分を表現できたらいいなとは思っている。

 

 

候補にすら入っていない

別に落ち込んでいるわけではないのだが久々に文章を起こしたくてここにきた。最近は進路を決められるようにとなんとか前向きに頑張れているが、その中で思ったことを。

 

会社の採用ページでよく見かける「社員紹介」なるものを読む度に、「その選択肢、小さい頃の私にあったか?」とかなりの頻度で考えている。私がしてきた人生の選択はその人は経験していないし、結局のところ「人による」と言えばそこまでなのだが、人生選択の岐路で候補にすら入っていないことがサラサラと書かれていて、なんだか違う惑星の話を見聞きしているような気持ちになることがある。キラキラした会社に厳選されたキラキラした社員の方は、私がチョイスした選択肢なんてものは当然候補に入っていて、ゴミ箱にダンクシュートしているんだろうな、ジャンプしなくても届くリングにさ

 

自分の今の生活が充実していないから、自分では選ぶことのできない過去を言い訳にして逃げているのでは?という自らへの問いかけはもう何度も通ってきた道で、仮にそうだったとしても、マイナスな感情になってしまう話題だなと思います

 

身の丈に合わない挑戦は、時にリアリティを降らす。残酷なことに、持つものは持たざる者に対してリアリティを振りかざしてくる。振りかざしていることに無自覚なまま。

 

とはいうものの、私も恵まれて得られた経験もあるから、嘆いてばかりじゃなくて生まれや経験に感謝しながら生きていきたいと思っている 戦うよ〜〜〜

 

 

不可逆反応

高校の化学の授業で「不可逆反応」について習ったことを思い出した。変化した後はもう元に戻らない反応のことだった。可逆反応と対を成す表現である。

 

自分の性格や特性について考えていたとき、もう元には戻せない特徴もあるよなと思ったことがあった。まさしく不可逆的な成長というか、発達しすぎたなあ、みたいな。もっと知性のある人間になりたいとか、もっと相手に寄り添える人間になりたい、はまだまだ成長の余地はある願いだけれど、考えすぎることを辞めたいみたいな願いって、不可逆的なものなんじゃねえのかなと思う(絶対に元に戻れないというわけでもないと思うけど)

 

くっそどうしたらいいんだ 過去のトラウマみたいなものが引っかかって、何においても熟考してしまう。強みでも弱みでもあると思うけど、願っても元には戻れねえ 老いるってこういうことなのか 成長すれば何にだってなれると思っていたのは若さなのか まだ成長だけを信じてどこまでも進みたいぜ こんな歳して削ることを願いたくないやい 

「救い」に関するセルフ裁判

 最近の自分に対して自分がよくないなと思っていることが1つ、いや2つある。まず1つ目、就職活動において「救いを求める」みたいなスタンスになってしまっていることがよくない。そして2つ目、「救いを求める」というスタンスをよくないと思ってしまっていることがよくない。自分の中の裁判がいつまでも閉廷しない。(文章の都合上これ以降1つ目の悩みを検察側、2つ目の悩みを弁護側と呼ぶことにする)

 そもそも「救いを求める」について説明すると、神や宗教にすがったりしているわけではなくて、就職する上で自分にはどうもできない領域にいる気がするので、誰かに就職先を紹介してもらったり、何かきっかけを与えてもらったりすることを受動的に待っているという状態のことである。詳しく書いていきたい。

 上で「どうにもできない領域」と表現したのは、前の文章でも書いたように、社会が精神疾患に有しているイメージと、既往歴がある人の採用のしづらさについてである。正直これは自分が回復していても、していなくても、影響を与えられる領域ではないので精神衛生のために自分の課題ではないと思うようにしている。会社の理解力と度量みたいなものだと思う。これが自分の課題ではない(=どうしようもない)ので、きっかけを待っている。何度も言うようですが、むやみやたらに受けて、その都度開示して、自分にはコントロールできないところで落とされて、傷つきたくないです。

 ここで登場するのが検察側で、「そのスタンス受動的すぎない?」という問いを投げかけてくる。芯を食った指摘なので、正直ダメージがデカい。デカすぎる。でもこのまま反撃もせずにKO負けするんじゃなくて、受動的になっている原因をもう少し考えてみたい。もう少し構造的に、シンプルに、でも解像度高く不安を言語化したいと思う夜があった。弁護側に寄り添ってみる。

 自分が就職及び就職活動に本腰を入れられない原因になっている「不安」は3つ思いついた。

  1. 自分の病とそれにまつわる過去、そして現在の状態をうまく説明できないかもしれない
  2. 会社は理解してくれるだろうか、そして受け入れてくれるだろうか
  3. 入社後うまくやれるか、社会生活に適応できるか、本当に病と共生できるか

という感じ。で、2は上でも触れたようのもので、自分の課題ではない。だから検察側には1と3について説明する必要がありそう。

 それで1と3について、頑張れているかは正直わからんけど、まあ向き合ってはいる。自分の中では完璧ではないけど十分頑張っているのではないかなという認識でした。(そもそも完璧なんて無理だ、また完璧主義がこちらを覗いてきた)こうやって文章に書いたり、日記で振り返ったりしているので頑張っている、はず。そしてここは他人から努力不足を指摘できるところではないとも思う。モラル的に指摘できないだろということではなく、答えは当人の心の中にしかなくて、達成度なんてものは外から測れなくね?ということでした。(自分で測るのも難しいですが)

 

長くなったが今の段階の結論を自分として、裁判官として述べるなら、検察側の『「救いを求める」みたいなスタンスになってしまっていることがよくない』という発言は外から指摘できるものではない。ただその指摘自体は間違っているとも言い切れないし、自分由来で思うことには問題がないのかなという感じ。だからどちらかといえば弁護側が正しいと考えられる。(白黒思考になっているわけではない)弁護側の『「救いを求める」というスタンスをよくないと思ってしまっていることがよくない』は良い指摘なんじゃないですか?というふわっとした結論で閉廷。救いを待ち続けるんじゃなくて、あくまで能動的に人生を動かしていきたいし、その中で助けてくれる人がいるなら、その船に乗ることもアリだよねという感じ。

 

いずれにせよ「自分のスタンスに対する自分からの批判」が鋭利すぎると思う。あくまで自分が乗り越えるべき課題を提示するぐらいのレベルに留めてほしい。自分由来の言葉に自分で傷ついたら、悲しいしもったいないぜ〜〜〜〜〜〜

 

 

「夢中」待ち

日記を書いたり、内省したりする中で、自分に関する仮説がぱっと思い浮かんだ。

自分の人生で「夢中」になった経験が少ない、もしくは経験していないせいで、他人の「夢中」を信じてあげられていなかった、というものだ。この仮説は大学生の頃の自分に当てはまる気がしている。

 

大学時代の自分を振り返ると、どこかスレていて、卑屈だった。大学は自分にとって眩しすぎて、辛かった。周りの大学生は競争に慣れていて、がめつくて、強靭で、苦しかった。就活やゼミの面接での綺麗なお話は、誰が話していようと、差別化するためにべっとりと塗り固められた綺麗事だと思っていた。口が達者で、準備に余念が無くて、演技が上手くて、競うことに躊躇いが無い奴が上へのし上がっていくんだなと思っていた。人の「夢中」を信じられなかった。

今思えば、とても極端な思考だった。比較される機会が多過ぎておかしくなっていたんだと思う。

 

当時の自分は就職も進学もしなかったので自分を説明する機会はそこまでなかったけれど、当時面接を受けていたなら、どんなことを話していただろうか。少なくとも当時「夢中」だと認知していたものはなかったと思うし、現在からタイムマシーンに乗りながら過去を振り返ってもないような気がする。

結局人のことを細い目で見ていただけで、自分には「夢中」になれるものなんてなかったのかなあと思う。(なんとか捻り出してゴリ押ししてたかもしれないけど)他人を言い訳にして、自分が夢中になれるものを見つけようとしていなかった。卒論は書いたけど、学問として突き詰めた感覚はないし、結局軸足が定まらず1つの学問を選んで基礎を固めたとも思えなかった。叶えたい夢も、就きたい職業も、見たい世界もない。文句ばかり垂れている努力不足野郎でした。(その当時は認知できていなかったからあまり後悔はない、今なら「もっと上手く時間を使いたかった」と思えるけど)

 

選ばれる段階をひとまず終えた友人たちは、それぞれ働き始めたり、院生として勉学に勤しんでいる。彼ら彼女らを見ていると、あの時語っていたであろう「夢中」は嘘ばかりじゃなかったんだなと思えた。(友人を疑っているわけではない)絶えず進み続けながら確信度を高めていたり、アップデートしたりして、十人十色の夢を抱いているように思える。

 

ようやくここで、最初の仮説に関する自分の考えを書いてみようと思う。プライベートな話になるが、直近1年間で趣味だと思えるものを数個見つけた。それらについて毎日考えてしまうぐらいハマっているが、いつからか「夢中」とはこういう状態を言うのかもなと思えるようになった。人生で初めて自分の「夢中」を認知したような気がする。

おそらく「夢中」状態は自ら能動的に作り出せるものではない。気付いたら「夢中」になっているというのが正しい気がする。大好物の食べ物を探し出すためにいろんな食材や料理を試すことはできるけれど、答えは自分の中にある。むしろ自分の中にしかない。自分の中に電撃が走る瞬間を待つしかない。いろいろ食べてみた上で、僕はハンバーグが大好物だ!と思えたら、その後にひき肉のベストな割合を考えるとか、ソースにこだわってみるとか、向上心が湧き上がってくるはず。その状態こそ「夢中」で、そういう終わりのない営みを趣味と呼ぶのがいいのかなと思う。ここに他者との比較は存在しない、自分しかいない世界で自分がただ楽しいだけなので。(同じ趣味の人と到達度みたいなものを比較してしまうと、楽しめなくなるタイプだと思う)

そのために余計な力を抜いて、自分の感覚を研ぎ澄ませて、一球一球に本気で向き合う。こうした一連のマインドフルな行為の積み重ねが必要になるんだと思う。過去との対話とか、要素の炙り出しとかも必要かもしれない。とにかく受動的に待つしかない。能動的にできるのは受動的に待つための打席を増やすことだけだと思う。

 

大学生の頃の自分は学問や将来像の中に「夢中」を自ら作り出そうとしていたし、「夢中」は自分をわかってもらうためのツールだと思っていた。全て自分の外に求めていた気がする。メタ視点で自分を見過ぎていた。立った打席も少ない。今思えば間違っている。周りの友達で「夢中」を見つけた人たちは、色々な人やものとの出会いの中で自分の中に電撃が走ることを認知して、それを大切に温めてきたんだなーって。だから自分の夢中を赤の他人に堂々と説明することができるんじゃないかって思えたんです。自分にも他人にも寛容になれた気がしました。

 

人生で「夢中」になれるものをたくさん探していきたいと思っているけど、私は学問で「夢中」になることをまだ諦めていない、広く学んでみて、己の雷鳴を待ってみたい、とりあえず今は働こうと思っているけれど年齢も所属も関係なく、学びは続けられるものだから 

 

能動的にいっぱい打席立って、人生を受動的に動かしていくぞ、まじで

なぜ働き始められないのか

私はなぜ働き始められないのか。最近はこればかり考えている。

 

むね肉じゃなくてもも肉を買いたい。ふらっと寄ったABCマートで気に入った靴を買ってみたい。HUBで1Pintのビールを気兼ねなく飲みたい。ボウリングで満足するまで投げたい。八百屋のイチゴを買いたい。セブンイレブンのおっきいポップコーンを食べたい。2駅ぐらい先でも電車に乗って移動したい。コンロの数が多い家に引っ越したい。直近で我慢したことはこんな感じだろうか。まあ、とにかくお金がない。

 

お金もないけど、それ以上に就活で自分を説明する勇気がない。今は説明する言葉も持ち合わせていない。「人より少し心配性で考え過ぎてしまう」以上の説明がない。理解していないものを他人に説明することはできない。時間が永遠に止まっているようで、状況が好転しない。だから、お金がない。

 

はっきりと明確なトラウマがある。一昨年の夏に引きこもり状態だったとき、新しいバイトに思い切って応募したことがあった。そのバイトはリモートでよかったし、自分の長所が生かせそうだった。面接の時に今の自分のことについて、主に病について説明した。言うか悩んだけれど、一緒に働く上で理解してもらいたかったためである。すぐに苦しそうな顔をされた。時間が経ってメールで連絡があり、結果は不採用。カミングアウトした時点で覚悟はしていたので、結果に関してはほぼノーダメージだった。病以外に原因があったかもしれないし、自分より良い人が居たということだと思う。ただ、面接官の表情はこうかばつぐんだった。カミングアウトしたことは後悔していない。そして面接官の対応に問題があったとも思っていない。ただ、シンプルにイメージが悪いものなんだなと理解した。面接官の何倍も苦しい表情をしていたと思う。

 

だから、本当に自分を受け入れてくれる職場なんてないのではないか?と思うようになってしまった 世間は精神疾患に対してとても冷たい 極太の線を引いてきやがる みんな悩んでいて、すぐそこまできているのに もう診断が出るレベルまでボロボロの人もいっぱいいるのに 健常者から見たこちらの世界ははるか遠くなのかもしれないが、こちらの世界からそちらを見た時はすぐ近くに見えているぞ

 

まあ自分以外に変化を求めても無駄なので、矢印を自分に戻す。(書きながら思ったがここ半年の自分はここで思考が止まっていた。世間の精神疾患へのイメージに悲しんで終わりになっている。)今の自分に足りないのはおそらく「自分を説明する勇気」である。上でも触れた。会社や人事が病をどう思うかは変えられないけれど、説明さえすれば病へのイメージと切り離した「自分」として見てもらうことができるんじゃないか。

 

なんだか会社にエントリーできそうな気がしてきた。自己理解が完璧じゃなくても、そのときにわかっている範囲で自分を説明する。空白期間のことも。(完璧主義が邪魔をしている、どこまで行っても自己理解に完璧なんてないのに)多分できるぞ。

 

ただ説明する相手はしっかり選ばないといけない。いくら勇気があってもむやみやたらに説明できるわけではない。私にも残りHPがある。余計な傷を増やさないように、仲間になってくれそうな企業を探す。会社に必要とされたいのは事実だが、選ばれることばかり考えず、選ぶ意識も忘れずに。

 

客観的に自分を見る難しさ、そして言葉にしてみることの大切さを学べた気がする。定期的にまた来ようと思う。