内的世界旅行

考え過ぎた時にテイクオフ

「救い」に関するセルフ裁判

 最近の自分に対して自分がよくないなと思っていることが1つ、いや2つある。まず1つ目、就職活動において「救いを求める」みたいなスタンスになってしまっていることがよくない。そして2つ目、「救いを求める」というスタンスをよくないと思ってしまっていることがよくない。自分の中の裁判がいつまでも閉廷しない。(文章の都合上これ以降1つ目の悩みを検察側、2つ目の悩みを弁護側と呼ぶことにする)

 そもそも「救いを求める」について説明すると、神や宗教にすがったりしているわけではなくて、就職する上で自分にはどうもできない領域にいる気がするので、誰かに就職先を紹介してもらったり、何かきっかけを与えてもらったりすることを受動的に待っているという状態のことである。詳しく書いていきたい。

 上で「どうにもできない領域」と表現したのは、前の文章でも書いたように、社会が精神疾患に有しているイメージと、既往歴がある人の採用のしづらさについてである。正直これは自分が回復していても、していなくても、影響を与えられる領域ではないので精神衛生のために自分の課題ではないと思うようにしている。会社の理解力と度量みたいなものだと思う。これが自分の課題ではない(=どうしようもない)ので、きっかけを待っている。何度も言うようですが、むやみやたらに受けて、その都度開示して、自分にはコントロールできないところで落とされて、傷つきたくないです。

 ここで登場するのが検察側で、「そのスタンス受動的すぎない?」という問いを投げかけてくる。芯を食った指摘なので、正直ダメージがデカい。デカすぎる。でもこのまま反撃もせずにKO負けするんじゃなくて、受動的になっている原因をもう少し考えてみたい。もう少し構造的に、シンプルに、でも解像度高く不安を言語化したいと思う夜があった。弁護側に寄り添ってみる。

 自分が就職及び就職活動に本腰を入れられない原因になっている「不安」は3つ思いついた。

  1. 自分の病とそれにまつわる過去、そして現在の状態をうまく説明できないかもしれない
  2. 会社は理解してくれるだろうか、そして受け入れてくれるだろうか
  3. 入社後うまくやれるか、社会生活に適応できるか、本当に病と共生できるか

という感じ。で、2は上でも触れたようのもので、自分の課題ではない。だから検察側には1と3について説明する必要がありそう。

 それで1と3について、頑張れているかは正直わからんけど、まあ向き合ってはいる。自分の中では完璧ではないけど十分頑張っているのではないかなという認識でした。(そもそも完璧なんて無理だ、また完璧主義がこちらを覗いてきた)こうやって文章に書いたり、日記で振り返ったりしているので頑張っている、はず。そしてここは他人から努力不足を指摘できるところではないとも思う。モラル的に指摘できないだろということではなく、答えは当人の心の中にしかなくて、達成度なんてものは外から測れなくね?ということでした。(自分で測るのも難しいですが)

 

長くなったが今の段階の結論を自分として、裁判官として述べるなら、検察側の『「救いを求める」みたいなスタンスになってしまっていることがよくない』という発言は外から指摘できるものではない。ただその指摘自体は間違っているとも言い切れないし、自分由来で思うことには問題がないのかなという感じ。だからどちらかといえば弁護側が正しいと考えられる。(白黒思考になっているわけではない)弁護側の『「救いを求める」というスタンスをよくないと思ってしまっていることがよくない』は良い指摘なんじゃないですか?というふわっとした結論で閉廷。救いを待ち続けるんじゃなくて、あくまで能動的に人生を動かしていきたいし、その中で助けてくれる人がいるなら、その船に乗ることもアリだよねという感じ。

 

いずれにせよ「自分のスタンスに対する自分からの批判」が鋭利すぎると思う。あくまで自分が乗り越えるべき課題を提示するぐらいのレベルに留めてほしい。自分由来の言葉に自分で傷ついたら、悲しいしもったいないぜ〜〜〜〜〜〜